函館由来の偉人の言葉

2008-04-01 vol.393

偉人の言葉で明日が変わった!函館ゆらいの有名人の格言集めてみた

今日から新年度——。新社会人としてのスタートを切る人や新しい環境での生活がはじまる人、あるいは新たな目標を立てて気持ちを引き締めて仕事をはじめるという人も多いのではないでしょうか? 大きな希望と少しばかりの不安を抱えて歩み続ける人生の中で自分の背中を押してくれるのが、時代の先人が残してくれた名言。

偉人の言葉で明日が変わった!函館ゆらいの有名人の格言集めてみた

ここ函館にゆかりのある偉人達も、素晴らしい言葉を残しています。地域にとってますます厳しい時代といわれる昨今ですが、市民1人ひとりが大きな夢を持って暮らしてゆくことが何よりの地域活性化の原動力となるのではないでしょうか。そしてこの街ゆかりの偉人の言葉の中にこそ、私達が地域で幸せを掴むためのヒントがあるのかも知れません。

函館ゆかりの偉人たち

“人はおいしい食べ物が豊富にあり、住み心地のよい家を持っておりさえすれば、のんきに暮らすことができます。これは国家だって同じことですよ。”

―カール・レイモン

カール・レイモン

1894〜1987年。旧ドイツ・カルルスバードに生まれ。1919年に来日。1922年に函館で、生涯の伴侶となる勝田コウさんと出会う。2人でドイツに渡りハム・ソーセージ店を開くが、1924年に再び函館に戻って開業する。外国人であることから工場を強制買収されるなど、戦前戦中の不遇時代を経て、次第に函館市民に認められるようになる。素材の持つ風味を活かす努力を重ね、函館にハム・ソーセージの食文化を根付かせて、「胃袋の宣教師」といわれた。

協力/カール・レイモン歴史展示館

“文化というものは中央から地方へではなく、水のように高いところから低い所へ流れるもの。北海道の文化の水準を上げ、地方が中央を動かすような力をつけることが今一番大切なことだ。”

―田辺三重松

田辺三重松

1897〜1971年。函館洋画壇の黎明期を支えた画家。大胆な構図と鮮やかな色彩で北海道の自然を大きなスケールで描き、独自の風景画の世界を確立した。大正10年、函館で初めての本格的美術団体『赤光社』の創立に参加。全道美術協会の創立会員として道内画壇の指導的役割を担う。昭和42年、70歳の時に網膜剥離によって右眼を失明するが、逆境にめげずその後も意欲的に画業を続け、昭和46年、北海道開発功労賞を受賞した。

参考資料/『ステップアップ』
『ほっかいどう百年物語』
写真提供/北海道立函館美術館

“「明日は」「明日は」と言いながら、「今日」という一日を無駄にすごしたら、その人は「明日」もまたむなしく過ごすにちがいありません。”

―亀井勝一郎

亀井勝一郎

1907〜1966年。文芸評論家。函館市元町生まれ。旧制函館中学校(現在の中部高校)から東京帝国大学文学部美学科に入学。1934年に最初の評論集『転形期の文学』を刊行。『人間教育(ゲエテへの一つの試み)』など、多数の著作で知られる。大三坂を下って右手には武者小路実篤筆の「亀井勝一郎生誕之地」と書かれた石柱と碑があり、函館公園付近には、有名な「人生邂逅し開眼し、瞑目す」の言葉が刻まれた「亀井勝一郎文学碑」がある。掲載した言葉は、著作『愛と結婚の思索』より。

協力/函館市文学館

“これからの私の大詰めの舞台は魂にシワを刻むことのない良き老優であるように努力します。その時こそアンコールの幕は止めどもなく上がり続けるでしょう。”

―益田喜頓

益田喜頓

1909〜1993年。喜劇俳優。函館市青柳町生まれ。4人組の「あきれたボーイズ」を結成して人気を集めた。芸名はアメリカの喜劇俳優であるバスター・キートンに由来。平成2年からは愛する故郷・函館で暮らし、地元市民とともに活動を続けた。また、同年から4年間、北海道新聞夕刊で『キートンの人生楽屋ばなし』というエッセイを執筆。その後、同タイトルの書籍が同新聞社から発行。掲載文は「歳月は皮膚のシワを刻むが、情熱の消滅は魂にシワを刻む」とのマッカーサーの言葉を例に上げ、同エッセイの最後を締めくくった一文。

“「女ばかりの集会などで気炎をあげる暇があったら少しでも家事をしたらいい」。私もそう思っている。しかし、現代の家庭教育なり社会教育がもう少し女の人達を時代に即して育て上げてくれないかぎり、私たちはやはり集団の力でお互いに成長しなければなるまい。”

―川崎ヤエ

川崎ヤエ

1903〜2000年。小学校教師、新聞記者を経て、函館初の女性市議会議員となる。昭和のはじめ、教師の傍ら函館初の女性のための新聞『北方婦人新聞』の編集長として、婦人参政権問題など社会的テーマを掲げて健筆をふるう。女性の地位が低かった時代に女性だけの同人誌を次々に発行。その後も北海道新聞記者、市議会議員として、また、婦人運動のリーダーとして多方面に活躍。「函館に川崎ヤエ在り」と言われた。

写真提供、参考資料/『道南女性史研究』

“郷土愛を高めることは、まちの図書館の大切な役目です。こどもたちやこれからの函館を背負う若者に、北海道のこと、函館のことを知ってもらうためにも、私は郷土資料の収集は何より大切だと信じています。”

―岡田健蔵

岡田健蔵

1883〜1944年。私財を投じて図書の収集、保存に努め、函館図書館を不燃建築物にする為に尽力し函館の図書館の基礎を築いた。また、啄木の遺骨を東京から函館に持ち帰って慰霊し、啄木文庫を設立した。図書館事業の充実のため、市議会議員に立候補し当選。図書館のみでなく学校建築の不燃質化にも尽力した。市立函館図書館が、質量ともに北方郷土資料の宝庫といわれるまでになったのは、ひとえに彼の献身的な努力によるもの。

参考資料/『ほっかいどう百年物語』
写真提供/函館市中央図書館

“人に小言を言われた時に腹を立てるな腹の立った時に小言を言うな”

―新島襄

新島襄

1843〜1890年。東京生まれ。アメリカへの密出国を画策して函館に滞在しロシア人司教ニコライ神父と知り合う。1864年6月深夜、上海へ出港するアメリカ船ベルリン号に密かに乗り込む。上海でワイルド・ローバー号に乗り換え、1865年7月ボストンに到着。船中で呼ばれた「ジョー」が後の名前「襄」を使うきっかけとなった。船主ハーディー夫妻の援助を得て、アメリカで学び、帰国後はキリスト教精神に基づく教育を実現するべく奔走し同志社を創立する。青年時代から晩年に至るまで書いた数々の手紙や手記、日記が残されている。

写真・資料提供/同志社校友会函館クラブ

“病の人には病院が必要なように、健やかな人にも休養する場所が必要。”

―リチャード・ユースデン

リチャード・ユースデン

1830〜没年不明。1861年に英国領事代理として函館に赴任。後に英国領事となりました。リチャード・ユースデンの勧めにより、渡邊熊四郎をはじめとして財界人から函館区長まで函館公園築園を推進。この言葉は、その時に語ったと伝えられています。築園にあたっては当時の函館県令時任為基はモッコを担ぎ、一般市民が1日に200〜300人も加わわり、官民一体となって労働奉仕したそうです。ちなみに函館公園は、北海道で最初にできた公園です。

写真提供/函館市中央図書館蔵
参考資料/瀬戸是清『函館西部町物語』

“逢うときは語りつくすと思えども別れになれば残る言の葉”

―川田龍吉

川田龍吉

1856〜1951年。四国生まれ。21歳で船舶技術習得のためにイギリスに留学。イギリスへの留学を終えた後、明治30年横浜ドックの初代社長に就任。明治34年横浜でアメリカ製の蒸気自動車を購入し日本初のオーナードライバーとなる。明治39年函館ドック再建のため来道し実業家として手腕を発揮するかたわら、当別に試験農場を作り近代農業を実践する。七飯農場でイギリス人女性との想い出の味を再現するためジャガイモを試験栽培。「男爵いも」として全国に広まる。

写真・資料提供/男爵資料館

“この世は短し急がにゃならぬ 見よ定まれり我らが目標確かで変わらぬ目的こそ 我が求める希望なれ”

―ウィリアム・レニー

ウィリアム・レニー

1866〜1951年。カナダ生まれのイギリス人。1906〜1941年に函館在住。函館商業、函館中学、函館商船、函館工業で英語教師となりました。函館名物1にイカ、2に啄木、3にウィリアム・レニ−とまで言われたこともあったほど有名人でした。貧しい人のために献身的に尽し、ある年の暮、救世軍の社会鍋に給料袋ごと入れたと思われる分厚い封筒があり、その主はウィリアム・レニ−だったという逸話もあります。

写真提供/『五稜ケ丘-函商創立90周年記念特集号』
参考資料/神田幸子著『ウィリアム・レニ−小伝』

“凡作事、須要有事天之心、不要之示人之念(凡そ事を作すには、須く天に事うるの心有るを要し、之を人に示すの念を要せざるべし)”

―坂本森一

坂本森一

1887〜1947年。1929年、函館市長に就任。2期を務め戦後公選されましたが病没。水電会社問題や1934年の函館大火など重要問題を解決し、名市長とうたわれました。大火後の復興に尽力し、大火で憔悴していた市民を元気づけようと港まつりを計画。1953年に第1回港まつりを開催しました。この言葉は大森公園内に建てられた坂本森一之碑の碑文。「およそ何ごとかを成し遂げるには、自分の決意が大切で、これを人に誇示するものではない」という意味。

写真提供/函館市中央図書館蔵

“1年じゅう野球のできる“内地”のチームと同じことをやっていたのでは、勝てるはずがない。半年は雪の中なんだから、2倍、3倍の練習をしなきゃいかんのだ。それが当たり前なんだよ。”

―久慈次郎

久慈次郎

1898〜1939年。青森県青森市生まれ。早稲田大学卒業後、函館水電に入社。社会人野球チームの函館太洋倶楽部に入り、4番打者の捕手として活躍。1931年、1934年には全日本の主将にもなり、来日したアメリカ選抜チームと対戦しました。その後、函館市議会議員となり、汐見市民運動場造営に貢献しました。1959年に野球殿堂入りしました。

写真提供/函館太洋倶楽部
参考資料/『北の球聖 久慈次郎』
(『草思社』発行、中里憲保著)

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