6月21日は父の日…やっぱり素敵なお父さんの背中
新しい父親を
日本には1950年頃、その習慣が入ってきたと言われますが、一般に定着するのはずっと後の事でした。今でも、母の日にくらべると影の薄い印象の父の日ですが、普段めったに感謝の言葉などかけるチャンスのないお父さんに、日ごろの感謝を形にする良い機会ということからか、最近はデパート等の特設売り場には父の日グッズがたくさん並ぶようになっています。
日本では、かつて「地震・雷・火事・親父」といわれたように、父親はこわいものの代名詞でした。
現在の、特に若いお父さんには、頑固親父だの大黒柱などといういかめしいイメージはそぐわない気がします。むしろ、優しいお父さんというイメージがぴったりのお父さんが多くなっているようです。
特に娘にとっての父親はそんな存在のように思います。生まれた赤ちゃんが女の子とわかったときから、この子は絶対嫁にはやらない、などと公言しているお父さん。年頃になって、娘からお父さんは向こうへ行って、と言われてしまい、しょげるお父さん。娘の結婚式で、泣いているのを見られたくなくて、わざと怒ったようにそっぽをむくお父さん。そんな愛すべきお父さんたちを、当の娘たちがどう思っているのかは関心のあるところです。
一方、男の子と父親の関係は、もっと複雑なものがあるとよく言われますが、そこは男同士、分かり合えることもきっと多いのではないてしょうか。
子どもと父親の関係は、母親のそれと違って少し距離があるだけに、なかなかむずかしいものがあるようです。でも、普段一緒にいる機会が少ない分、逆にいつも客観的に子どもを見ることができるともいえます。お母さんにない新鮮な見方で子どもの良いところを見つけることもできるはずです。
かつてのような父親としての権威が失墜したのは、家父長制度がなくなったことで、日本社会が実質的にも近代化した証拠と言えますから、むしろ歓迎すべきことともいえます。育児や家事にお父さんがかかわるようになったのも、ひと昔前からみると画期的なこと。
強いだけではなく優しさも兼ねそなえた、現代にふさわしい新しい父親像が、そろそろ待たれる頃でもあります。
全略…父への手紙
前略、頑固親爺さま
(20代・2児の母)
子どもの頃、頑固者のお父さんが大嫌いでした。お父さんのような大人にはなりたくない…お父さんのような男を結婚相手には選ばない。そう固く誓っていたくらい…お父さんの事を頑固でわがままな人だと思っていました。
実は高校生の頃、校内作詞作曲コンクールで友達と「うちのおやじ」という歌を作ったことがあるのです。その時の詞とエピソードを父の日に贈ります。お父さんへ精一杯の反抗の詞。
「うちのおやじ、うちのおやじ100%自己中心で。『高校出たら働けよ』(親爺の口調で怒鳴る)。自分の道は自分で決めるよ。でもやっぱりうちのおやじさ」
友達とお父さんの悪口をたっぷり言いながら作詞しました。でも仕事に出掛けていくお父さんの後ろ姿が頭に浮かんできて、なんだかかわいそうになり最後に「でもやっぱりうちのおやじさ」と入れようということになったのです。
コンクールの日、全校生徒の前で友達と2人で3番まで熱唱。会場内は大爆笑。そして3位に輝きました。でもこのことを、お父さんには言えませんでした。
お父さん、最近元気ないみたい。やっぱり頑固おやジがお似合いだよ。
草々
前略、僕に野球を教えてくれたお父さんへ…
(20代・男性)
結婚式のプロフィールに子供の頃の写真を使うと発起人の方が言ったので、僕は久しぶりに子供の頃のアルバムを開きました。
小さい頃の僕の写真は、いつもジャイアンツの野球帽をかぶっていて、寝室で写した物には、ジャイアンツのユニフォームのようなパジャマを着ている僕がいます。
お父さん、お父さんは昔から野球が好きで、ジャイアンツが好きで、僕にも野球をしてほしいといつもキャッチボールをしてくれました。
お父さんのおかげで僕は中学時代、ピッチャーになりました。背番号1番のユニフォームを見せた時は本当に喜んでくれましたね。
高校に入り、最初は野球部に入部しましたが、練習がキツいのと先輩が怖いのと、そして髪を坊主にするのが嫌ですぐに野球部をやめてしまった僕。ロックバンドを始めた時は、ギターを買ってくれたっけ…。
一緒にアルバムを見ていた母が言いました。「本当はあなたが野球部をやめた時、とてもがっかりしていたのよ」。期待に応えられずごめんなさい。でも僕が何をやっても応援してくれてありがとう。
草々
前略、天国のお父さん
(永遠のお父さん子35歳)
天国のお父さんそちらではどうお過ごしですか。お父さんが亡くなってから3年がたちましたが、ときどきお父さんが連れていってくれた海を思い出します。先日友人とプールに泳ぎに行きました。お父さんに教えでもらった平泳ぎで泳いでいたら、昔行った海にもう一度行きたくなりました。
お父さんはお母さんと再婚でしたね。9歳上のお姉さんはお母さんの連れ子で、私はふたりの子供。でもお父さんは私とお姉さんを別け隔てなく可愛がっていました。子供の頃は分からなかったことが、今では少しは分かるようになりました。自分の子供でなくでも親としての責任を果たしていたと…。
お母さんもお姉さんもしっかりしているのに、お父さんと私はいい加減なところのある性格。ときどき、ハッと思うことがあります。お父さんと同じことしているって。
歌なんて全然興味なかったお父さんがある時、ちあきなおみのレコードを買ってきて、毎日のように聴いていた事がありました。あれは家族皆に評判悪くて。お父さんは、周りのことなんか全然眼中になかったけど。ラジオでかかったその曲を偶然耳にしたとき、胸が一杯になりました。お父さん、叶うならもう1度会いたいお父さん。
草々
前略、大好きなお父さんへ
(いつまでもあなたの娘・18歳)
私の命がお母さんのおなかに宿ったことを知った時から、お父さんはいつも私のことを見守ってくれたのですね。
記憶も浅い子供の頃、仕事から帰ると、いつも窓を「こんこん」とたたいてからドアをあける、その「こんこん」という音を楽しみに、毎日帰りを待っていました。「ただいま」と、居間に入るお父さんはいつも疲れた顔、それを気にもとめずに私はとびついて遊びをねだったものでした。
いつだったか、釣りの好きなお父さんに「私もつれていって」とせがんだことがありました。困ったお父さんは「今は冬だから海がこおっていて釣りなんかできないんだぞ」と言いましたね。今思うと笑えるウソも、あの頃の私は真剣に、まだ見ぬ海でお父さんと釣りをする光景を思って心をときめかせていました。
疲れて帰ってきても、小さな私の遊び相手をしてくれたお父さん、高校生になった今も変らぬ愛情で見守ってくれます。
これまでずっとお父さんは、私の歩く道をつくってくれていたのですね。今では私も自分の道を一歩一歩歩み始めています。でも、いつか本当に一人で歩くその日まで、もう少し甘えさせてもらっていいですか、お父さん。
草々
前略、初めて父さんを理解したよ
(渡部 洋士)
実は俺、ずっと父さんをどこか毛嫌いしていたんだよね。理由はなんてことはない、酒を飲んでタバコを吸って、ただゴロゴロしている父さんが、なんだか嫌だったんだよね。
そんな俺が初めて父さんを理解したのは高1の秋、父さんと母さんが交通事故にあったときのこと。
幸い、父さんも母さんも大事には至らず、父さんは一応入院はしたものの、母さんはヒロタカ(いとこ)の家で静養することになったんだよね。
事故の話を聞いた俺は翌日、まず母さんの様子を見に行ったあと、父さんの見舞いに行ったんだけど、父さんははれあがった顔で、一番初めにこう言ったんだ。
「母さん、どうだった?」俺、そのことに心を打たれてね。父さんの“優しさ”、を目一杯感じたんだ。
最近、実家に帰ると、会う人会う人が言うんだよね。「お前の父さんにはどれだけ世話になったかわからない」って。
今の俺には、父さんがどうしてそんなふうに言われるのか、少しだけわかる気がするよ。きっと何の打算もなく、バカ正直に人助けをしてきたんだろうね。そんな父さんを誇りに思ってるよ。
草々
前略、結婚してお父さんの気持ちがわかりました
(30代、素直になった娘)
私が小さいときから、お父さんは仕事で忙しく、一緒に遊んでくれたことがなかったですね。お店をやっていたのでお母さんも忙しく、家にいても淋しかった。休みの日が違ったので遊園地につれていってもらったこともなく、そんなお父さんに反発して思春期の頃は口をきかないこともありました。そんなお父さんが私が17歳の時、初めて指輪をプレゼントしてくれて、とてもうれしかった。でもなかなか素直になれなくて反抗ばかりしていました。
お父さんの気持ちが本当にわかったのは結婚する時でした。今の夫を家に連れていった時、それまで、つまらないから結婚なんかするなと言っていたのに、夫の人柄を見て、2人の気持ちが強いのならと許してくれましたね。
結婚がきまってから、家族のことなど話したことのない無口なお父さんが、お酒を飲んで私のことばかり話していたと、知り合いのおばさんに聞きました。そして、今、娘を可愛がる夫を見ていると、お父さんの気持ちが少しわかるような気がします。きっとお父さんも、私のことこんなふうに見ていたのかと。今まで言えなかったけど、お父さんでいてくれてありがとう。
草々