青いぽすと

函館の都市伝説

2008-01-18 vol.388

函館にまつわる都市伝説…「赤い靴」の女の子の舞台は函館だった!

「久々に読みごたえがあった…」「もっとたくさん知りたい…」「こんなに知らないことがあるとは…」  昨年6月29日発行の巻頭特集「はこだて港まち伝説」には、実に数多くの反響を読者の皆様から頂いた。発行当時は空前の都市伝説ブーム…我々編集スタッフは考えた。ここ函館にも、隠れた伝説が幾つもあるのでは——。  伝説を探ることとはすなわち、地域史の一端を繙くということであろう。調べれば調べるほど、この街には驚くべき史実が幾つも眠っている。一連の作業の中でスタッフが感じたワクワク感がおそらく紙面全体にも反映され、その面白さが多くの読み手にも伝わったのではないだろうか。

 今回もまた、数々のレジェンドを紙面で綴った。それぞれの伝説には、史実として明らかなものもあれば、もちろんそうでないものもある。自分達が住む街のことを知るのは楽しいこと…。この次に新たな伝説を探し出すのは、この紙面に目を通した、あなた自身かも知れない——。

童謡『赤い靴』で、女の子が異人さんに連れられた場所は函館である…

横浜・山下公園にある、赤い靴はいてた女の子の像

「赤い靴はいてた女の子 異人さんに連れられて行っちゃった」という、野口雨情の詞で知られる童謡『赤い靴』。実は函館にとても縁が深いのです。モデルとなったのは岩崎きみという女の子。母親の岩崎かよは、当時3歳のきみを連れ本州から函館にやってきます。留寿都の平民農場に移住するためですが、体も弱く幼かったきみを連れて行くのは無理と判断し、函館に在住していた宣教師のヒュエット牧師にきみを託します。きみは牧師と共に渡米するはずでしたが、横浜で病死。そのことを知らないかよは、留寿都で結婚した夫とともに札幌に移住。隣に住む野口雨情夫妻と懇意になり、かよから話を聞いた野口雨情は、きみをモデルに『赤い靴』の詞を書きました。
(写真提供/北村巌氏)

自由市場向かいのグリーンベルトに、座ってラッパを吹く子供の像がある…

市内新川町・自由市場向かいのグリーンベルトに、「おもちゃの碑」と刻まれたユニークな像がある。前足を上げた馬を抽象化した台座の上に、鉄腕アトムを連想させるような子供がラッパを吹いている像が乗っている。この碑に関する詳しい資料は少ないが、平成7年5月に発行されたタウン誌「はこだでぃ」(幻洋社発行)に、当時同誌の記者だった本紙・大場小夜子副編集長が執筆した「おもちゃの碑」の記事が掲載されており、その記事と大場氏本人談によると、碑は昭和34年に「函館ゆうもあくらぶ」という団体が建立したもので、発案は当時の商工会議所副会頭だったとのこと。
(参考資料/南北海道史研究会発行『新訂函館散策案内』、幻洋社発行『はこだでぃ』)

現在の亀田中学校の敷地とその周辺に、飛行場が造られていたことがある…

太平洋戦争が末期を迎えた昭和20年4月から約4カ月に渡り、市内美原の亀田中学校の校舎やグラウンドがある敷地内とその周辺一帯で「赤川飛行場」の建設が行われていたことがある。
いうまでもなくその飛行場は軍用飛行場で、一角には防空壕を付設していたそう。当時、飛行場の造成工事には多数の函館市民が勤労奉仕として参加したといわれ、婦人も含めて多くの人が連日、土木作業に汗を流した。
結局、飛行場は完成することがないうちに終戦を迎えたが、土のままの滑走路にはアメリカ軍の飛行機が2度ほど飛来したといわれている。
(参考文献/幻洋社発行『函館むかし百話』)

西郷隆盛が函館に来ていたことがある…

東京の西郷隆盛像

明治維新で活躍し、明治政府で要職を務めた西郷隆盛が、箱館戦争末期の明治2年5月25日に箱館に来港していたことが分りました。記録によると、明治2年(1869年)5月1日に薩摩藩主島津忠義から手紙を預かり、戦況の視察と援護のために兵とともに鹿児島から艦船で来港したということです。しかし、西郷隆盛が箱館に着いた時はすでに箱館戦争は終結し、榎本武揚ら幕府軍は降伏した後でした。そのため、一行は箱館に3日ほどいて出航し、上陸はしなかったようです。この記録は、西郷隆盛に随行していた薩摩藩軍医の浜田瑞庵の日記に記されていたもので、札幌市の医療史研究家が発見しました。この件については、鹿児島県の西郷南洲顕彰館のホームページの年表にも記載されています。

深堀町に鉄道が造られていたことがある…

五稜郭から戸井までの29.2kmを結ぶ予定で建設が進められていた旧戸井線は、開通することなく廃棄された幻の鉄道です。線路の本格的な着工は昭和12年からで、津軽海峡に面した下海岸の要衝に建設された要塞や砲台に軍事物資を運ぶことを主な目的とした鉄道になる予定でした。しかし、戦争の激化に伴い工事が中断され、戦後も再会されることはありせんでした。五稜郭で函館本線と別れた鉄道跡は函館市内を一直線に走り、道路に姿を変えた区間のほか、遊歩道となった区間が多くみられます。深堀町のテーオーストア前から有斗高校北(湯川町国道278号交差点間)を結ぶ歩行者・自転車専用道路の「緑園通り」も戸井線の遺構を遊歩道としたもので、現在も橋やトンネルが多数残されています。

大正から昭和初期、函館に人気タウン誌があった…

函館市立中央図書館蔵

『ニコニコクラブ』は「函館に気の利いた雑誌の1ツや2ツあっても可い」という多くの声により大正7年1月に創刊され、発刊されるとたちまち完売するほどの人気雑誌となりました。記事は市内の女学校や中学校、商業学校などの学校関係から職業婦人、花柳界など女性評判記、菊池寛、水谷八重子などの著名人まで載っているという内容の濃いものでした。ゴシップ記事も多く、身近な話題が誌面を賑わす一方で、函館の名士が予想する「50年後の函館」では町の中心は五稜郭に移ると予言した人もいるなど、大衆的で時代を先取りした斬新な感覚が、先進的な函館の人々に歓迎されたようです。年に6回程度の発行で休刊もありましたが、昭和6年4月号まで発行されました。
(参考文献/『地域史研究はこだて16』)

函館駅は最初、海岸町にあった…

初めて函館に鉄道を建設した北海道鉄道会社(私鉄当時の名称)は若松町の埋立地を当時の函館区から譲り受け、函館駅を建てる予定でした。しかし、一部の区民による区内に鉄道を敷くと交通に危険という声や、敷地に関する数々の利害を考慮し、結局、若松町には駅を作らず、旧亀田村に近い海岸町(現在の函館西警察署付近)に建設、これが初代の函館駅となりました。明治35年(1902年)12月10日開業時のことです。その後、海岸寄りまで線路を延長し、2年も経たぬ明治37年(1904年)7月1日、若松町に新しく函館駅を開業しました。この時、元の初代函館駅は亀田駅と改称しています。2003年から利用されている現在の駅舎は5代目になります。
(取材協力/JR北海道函館支社 広報)

啄木小公園には、別の人の歌碑もある…

啄木小公園内に、片平庸人という民謡歌人の歌碑がある。特に石川啄木と深いつながりがある人物ではなく、同氏が酒に酔って冬の大森浜から海に入り事故死したことから、知人が建てた碑といわれている。すぐれた作品をいくつも残した民謡歌人だったとのこと。この歌碑に刻まれた作品もとても素敵だ。

北の海 にび色に かびろく
雲ひくく まろし砂丘
飢えがらす そが雪の上
ただ あるく ばッさ ばッさ ナ

(参考文献/北海道新聞社編『はこだて歴史散歩』)

湯川温泉を走る馬車鉄道があった…

当時の写真

明治19年に湧出した湯川温泉はその後多くの旅館が作られ、現在の函館市民会館付近には「湯の川遊園地」も作られた。また、1000人が1度に入れるという「1000人風呂」もあり、函館のみならず東北圏内からも人が集まる一大行楽地になっていた。その湯川温泉と十字街を結ぶ「馬車鉄道」が明治31年に開通した。箱型の車体をレールにのせ、2頭立ての馬で引いたという通称“バテツ”は、ハイカラ好きの函館っ子の間では人気の乗り物だったそう。馬が何かに驚いて立ち上がったり、時々止まったりしてその度に脱線したといい、脱線の度に乗客は黙って車から降り、みんなでかけ声をかけながら車体を持ち上げ、レールに戻したという。
(取材協力/湯川在住・門脇義治氏)

函館タクシーの犬のマークはアメリカで生まれた…

“カンタク”の愛称で親しまれる函館タクシーといえば、黄色の車両に白く描かれた犬のマークが有名だが、実はこのマークはアメリカ生まれなのだ。函館タクシー(株)は創業当初、東京・銀座に本社を置く帝産オート(株)の系列下にあり、この会社の創業者がアメリカ大陸横断バス・グレイハウンド社の了解のもと同マークを使用し、函館でもそのマークを採用したのがはじまり。当時、グレイハウンド社はアメリカ最大規模のバス会社としてよく知られていた。ちなみにグレイハウンドというのは犬の種類で、長い四肢とバランスのよい筋肉を持った、速く走るために作り出された犬種。そういえば確かに、函館タクシーに描かれたマークもとてもシャープで精悍に感じられる。街で見かけた時は注意して見てみては…。

函館港まち伝説 Vol.2 青いぽすと Vol.388