ゆるぎない決意が継続の秘訣
『鯉之助』店主 中里 拓二 さん
当店は昭和28年に父が杉並町で創業。翌年から本町の現在地に移転しました。私は店舗の2階に住んでいたので、本町の移り変わりを幼少の頃から見てきました。
18歳の時から店で修業をはじめ、21歳の時には丸井今井が十字街から移転してきました。移転後は昼夜問わずにお客さんが絶えず来店し、こちらは昼食を食べる時間すらないほどの賑わいでした。本町の店はどこも盛況でしたね。服屋や文房具屋、自転車屋も賑わっていました。店の前の交差点の横断歩道を、いつもたくさんの人が渡っていました。
美原地区や北斗市に大型ショッピングセンターができた頃から本町に来る人が少なくなってきました。特に日曜日の賑わいがなくなってきましたね。当店のお客さんも減りましたが、移転する気持ちはなく、先代から受け継いだこの場所で商売を続けてゆこうと強く思っていました。
そこで始めたのが850円のランチのサービス。看板メニューの鰻は使いませんでしたが、長年の経験を活かして美味しい料理を提供しました。たくさんのお客さんが戻ってきてくれました。850円のランチは今はやっていませんが、これがきっかけで現在もたくさんのお客さんが鰻を食べにきてくれるようになりました。長く商売を続ける秘訣は、ゆるぎない決意と、常に自身の技術の全てを発揮することではないかと、これまでの経験から感じています。
明治時代から続く味と接客を受け継ぐ
『阿さ利本店』3代目女将 土橋 正子 さん
昔、宝来町には蓬莱見番があって、界隈の料亭では海産商の旦那衆が芸者さんをあげて宴をしていました。明治34年創業の阿さ利もそんな1軒。私が嫁入りした昭和46年には蓬莱見番はなくなっていましたが、旦那衆が芸者さんをあげて宴をする名残はまだ少しありました。丸井今井や北海道新聞社が本町方面に移転した後は西部地区も寂しくなりました。
ウォーターフロント開発後は西部地区に活気が戻り、私が3代目の女将になった頃には地元の家族連れや観光客の方々が店に足を運んでくださるようになりました。お客さんが社用族から家族連れに変わってゆく中で、値段も見直す必要があると考え、現在は1人前2600〜4300円の中で予算に応じて利用していただけるようにしたほか、ランチやお弁当も始めました。気を遣ったのは味です。受け継がれる暖簾を汚してはならないと強く思いましたね。その思いは現在も、接客するスタッフに受け継がれています。
すき焼きは、お客様のお席で鍋を火にかけて材料を入れて味付けすることで味が決まります。1人1人が当店の味を守っています。スタッフに接客の心遣いを受け継いでもらうのが私の役目ですが、接客が根っから好きなので苦ではありません。店を長く続けてゆくコツは、仕事を好きであり続けることなのかもしれませんね…。
時代の流れとともに会社も変化
『株式会社イチマス』専務取締役 稲船 正光 さん
当社は、昭和10年に店頭販売がメインのイチマス佐藤商店として創業しました。その当時はお酒は酒屋で買う時代で、お酒を安売りすることもありませんでした。また、遅い時間まで営業しているお店も少なかったので、昭和57年に午後11時まで営業する店舗に生まれ変わった当社には、遠方から来店されるお客様も多かったようです。しかしその後、酒販免許制度の規制緩和により、お酒は様々な店で販売されるようになり、安く販売されるようになりました。酒屋にとって守られている良い時代だった昭和は終わりを告げ、向かい風が吹きはじめたのです。
時代に合わせて新しいものを取り入れる方針の当社では、平成3年に店舗メインの販売から現在の業務用卸に特化した業務へと体制を整え、現在に至ります。同時期に支店のリカーランドイチマスは飲食店などのニーズに応えるべく夜の配達を中心に再スタートしました。湯の川商店街も様変わりして店舗や人も減りましたが、北海道新幹線開業からは観光客が増え、追い風も吹いています。
現在はインターネット環境を利用してお得意様に商品情報などを配信するなど、昭和の頃とはまた違う取り組みにより新たな繋がりを強化しています。時代の流れとともに会社も変化してきたことが、当社が長年、続けてこられた理由だと思っています。
「やめないでね」って言ってくれるから…
『中華飯店 八宝園』 伊豫部(いよべ) 昌枝 さん
私は昭和40年に埼玉県から函館市に嫁いできました。函館に嫁いできた当時は、八宝園がある高盛町の辺りも人が多くてずいぶん賑やかで、さらに函館駅前地区の方なんてもっと人が多くて、すれ違う人とぶつかりながら歩いていたような思い出があります。私が働いていた八宝園の近所には、たくさんのお店がありましたね。店の隣には魚屋さんがあって、住宅も今よりたくさん建っていたし、人通りもとても多かったと思います。
今では近所にあったお店もみんな閉めてしまって、住宅も少なくなって街の様子は変わってしまったけれど、昔も今も変わらず八宝園に通ってくれるお客さんがいるからすごく嬉しいですね。自分の勤続年数が40年になったというのも、最近お客さんに言われて気づいたんですよね。親戚もいない見知らぬ土地に嫁いできて、主人も亡くなってしまったけれど、それでも函館に残っていたいと思ったのは、函館は心の温かい人が多い街だからです。
「お兄さん、お兄さん」って呼んでいたお客さんが、いつの間にかひ孫を連れてくるようになっちゃったりしてね。その分、私も歳をとって腰が痛かったりするけれど、これは仕事だし、「やめないでね」って言ってくれるお客さんがいるから頑張りたいと思っています。日曜日の午後5時以降限定で定食が500円で食べられるようになってからは初めて来るお客さんもたくさん増えてきて、お店も昔のような活気に溢れていますよ。
大門全体で力を合わせて活気を戻したい
『有限会社弁慶力餅三晃堂』代表取締役 野路(のじ) 邦英 さん
私が生まれたのは昭和10年。子供の頃の函館駅周辺には青函連絡船を利用する人が大勢いて、日露漁業などの遠洋漁業も盛んな時で漁に出る人も多かったですね。さらに、その人達を見送りに行く人も大勢いたもんだから本当に賑わっていましたね。たくさんの人が駅前を歩いていたからどのお店も繁盛していて、商店街全体に活気がありました。その頃に比べると、今は大門地区に来る人も減ってしまいましたね。寂しくなって当然です。
大門地区を昔のように活気づけるのは当店1軒だけでは無理だと思いますから、大門地区全体で力を合わせて活気を戻したいですね。年月が流れるにつれて人のニーズはだんだんと変わっていく。それと一緒に街の様子も変わっていく。だからこそ、それぞれのお店ができることでお客さんのニーズに応えていくと、人はまた大門地区に集まってくる。そうやって街の活性化に繋げていきたいと思っています。
函館市長も大門通りに力を入れてくれていてグルメサーカスを何年も続けているし、さらに港まつりもあります。高架線も地下に入れてモダンでスッキリした素晴らしい通りになる計画が進んでいます。それと、ありがたいことに当店には大福やおはぎなどの朝生菓子やいなり寿司、海苔巻きを昔から買いに来てくれている人が今でも大勢います。そういった昔ながらのお客さんに対して、伝統の味を提供していくことがうちの仕事だと思っています。
移り変わる街の風景。
『赤帽子屋』店主 村上 幹男 さん
赤帽子屋が創業したのは明治19年のことです。創業した場所は末広町だったけれど、大門にも2店舗の支店があったんですよね。それで、僕は現在の店舗兼自宅で産まれて、もう70年近くの間、この場所で暮らしています。やっぱり昔は大門には人がとても多かったですね。昼間も人が多かったけれど、夜でも人がとても多かったですし、パチンコ屋とか飲み屋が多かったので、こわい人がたくさんいましたね。きっと治安は悪かったんじゃないのかな(笑)。
現在は、街の形も変わったけれど、商売の形も大きく変わりましたね。昔は仕入れた帽子を中心に売っていたけれど、現在はオーダーで作るのが多くなってきました。半分くらいはオーダーだと思いますよ。生地はお客さんに持ち込んでもらうんですけれど、手間賃は8000円からです。昔着ていたスーツやドレスなんかの生地を持ち込んで来るお客さんも多いんですよ。
見ての通り、大門の街はだいぶ寂しくなってきていますよね。もう隠しようがない。時代が移り変わる流れのようなものもあるのは事実ですが、4年ほど前から営業終了後に店内で、月に1度のペースで音楽ライブを開催しているんです。ライブをやっている時は、商売抜きで人が集まる場所になっていて、少しずつ夜を面白くできているかなと思います。そんな流れを加速させて、大門の夜を少しずつ変えられたらいいですね。
フイルムからデジタルへ
『カメラのカナミ』代表取締役社長 金道 雅樹 さん
創業当時のカメラのカナミが映る写真には、「幌内炭」と書かれた大看板と本町交差点を中心に3方向へ延びる市電の線路と電車、そして線路上をのんびりと歩く人の姿が写っています。自分の幼い頃の記憶に残る本町交差点といえば、拓銀の前に電車の切り替え機がある風景です。その頃、市電の線路はガス会社から五稜郭駅まで続いていました。現在のシエスタハコダテが建つ場所にハイショップホリタができたのは昭和45年のことです。その時にカメラのカナミの支店であるカメラのトップも当時のホリタの中に開店しました。
フィルムカメラが全盛期だった頃は、行楽シーズンになるとフイルムを買い求める人で行列ができるほどでした。デジタルカメラが普及した現在は、フイルムカメラの需要はずいぶん減りましたが、写真を撮るという楽しみは形を変えて、今も写真を撮る人は増え続けています。
本町界隈の街並みも、まるでカメラの仕様が変化するように変わり続けてきました。当時は丸井今井から中央病院へ向かう辺りのところに、清酒・千歳鶴を作る日本清酒株式会社の大きな工場があって、行啓通りは片側1車線の狭い道路でした。風景が変わって、さらに世代も変わっていっても、この場所を愛する人達のこの場所に対する大切な想いというものは、きっと残り続けてゆくことでしょう。