私にとっての平成

2019-12-20 vol.675

【函館の7人が語る】私にとっての平成とは

今年は平成という時代が終わって、令和という時代を迎えました。今回は平成という時代に函館で活躍された7人の方々に、平成という時代はどんな時代だったかをインタビューしてみました。

【函館の7人が語る】私にとっての平成とは

美味しい笑顔が溢れる函館を

『ラッキーピエログループ』会長 王 一郎さん

『ラッキーピエログループ』会長 王 一郎さん

函館のご当地バーガー『ラッキーピエログループ』は1987年の創業。道南地方のみでの出店にこだわり続け、現在は全17店舗を展開。10月29日には「函館駅前店」が移転オープンするなど大きな話題を呼んだ。
ラッキーピエログループの会長・王一郎さんは、「ラッキーピエロのモットーは美味しい、楽しい」と話し、店舗ごとに異なるテーマの内装や、主に道南産の食材を使用するなど、美味しさを追求した料理の数々でラッキーピエロは平成の函館を振り返るには欠かせない象徴的な存在となった。
「函館という街に惚れて移住してきた」という王会長は地域貢献を大切にし、「地域から愛していただける会社となるように」という理念から商品の作り置きをせず、清掃活動や生ごみや廃油の再資源化にも積極的に取り組み、2006年には北海道ゼロ・エミ大賞を受賞。
王会長はスタッフと過ごす時間を大切にし、全店に顔を出すことはもちろん、新年研修大感謝祭、収穫祭、懇親会などを開催。スタッフ達も会長と同じようにお店を愛し、接客を楽しみ、函館弁混じりで接客するなど親しみやすさがとても感じられると観光客からも好評なのだとか。
「ラッキーピエロのお土産商品の袋の裏には函館の情報をたくさん書いています。それを読んだ人達が私の大好きな故郷・函館に1人でも多く訪れてほしいですね。そしていつの時代もキレイな函館を残さなくては…。函館に貢献し、発展させていくランナーは私で終わるのではなく、子供の世代、孫の世代へと続いていくことを望みます」  そう話す王会長の力強く愛に溢れる笑顔もまた平成の函館の象徴。  そしてランナーのバトンは王会長と同じ素敵な笑顔が輝く王社長へと渡った。

函館の街を元気にするために…

『函館黒船地域活性化協議会』会長 小林 一輝さん

『函館黒船地域活性化協議会』会長 小林 一輝さん

函館市内でレストランとアパレル&雑貨の販売を行う複合ショップ「サウス・シダー・ドライブ・イン」をはじめとして、道内外で事業を展開する「株式会社First FLASH」の代表取締役・小林一輝さんは、函館の活性化を目指して平成21年に発足した『函館黒船地域活性化協議会』の会長としても活動中。  そんな小林さんの活動の原動力は、函館に対する「地元愛」。札幌の大学に在学していた頃、オートバイで日本一周の旅に出た小林さんは、日本国内を見て回る中で、それぞれの地域に住む若者が地元を愛していることを痛感。そして改めて函館の良さを実感し、函館で起業することを決意した。当時、古着店でアルバイトをしていた小林さんはその経験を活かして函館の人が満足できるアパレルショップを目指して平成4年に、ご自身が起業した最初の店舗「FLASH BACK」をオープン。その頃、同じように地元函館に戻ってきた友人達と街の活性化のために何かできることはないかという話で盛り上がり、やがてそれを形にしたのが、音楽と食と体験のフェスティバル「函館黒船」(現在の黒船サーカス)だった。  「発足当初は実績もなく手探りの状態でしたが、函館の街に元気を届けたいという思いで、これまで進んできました」と、小林さん。
その思いは10回目を迎えた現在も変わらず、地域の人に喜んでもらえるようフェスティバルの内容も変化させてきた。
「多くの人の支えがあってこそ今に繋がっているので、時代が変わっても変化を恐れず挑戦してゆきたい」
そんな小林さんのモットーは、「やればできる!願いは叶う!」
函館という素晴らしい街の可能性を信じて、小林さんはさらなる進化を目指す。

いまや全国で行われる「バル街」の先駆者

『函館西部地区バル街実行委員会』代表 深谷 宏治さん

『函館西部地区バル街実行委員会』代表 深谷 宏治さん

スペイン・バスク地方の料理を味わえる「レストラン バスク」と「ラ・コンチャ」のオーナーシェフ・深谷宏治さんは、今年の秋で32回目を迎えた『函館西武地区バル街実行委員会』の発案者。函館生まれの深谷さんが東京理科大学で機械工学を学んでいた昭和40年代は、ベトナム戦争や公害が問題化した時代。その時代背景が基盤となり、兵器開発や環境汚染に関わらない仕事「料理人」の道に進むことを決意。
世界一の美食の街といわれるスペインのサン・セバスチャンで料理を学び始めた深谷さんは、恩師から「料理人が街を創り社会に関わる」ということも教わった。その思いを胸に秘め、昭和56年に地元・函館でレストランをオープンした。
その後、「たくさんの恩恵を受けてきた地元・函館に料理人として何ができるのかを模索していました」という発想から平成16年に「スペイン料理フォーラムinHAKODATE」というイベントを企画。その前夜祭として、チケットを購入した人が参加店で食べ飲み歩きを楽しむ日本では初めての試み「バル街」を開催した。これが、いまでは函館の春と秋の風物詩となった「函館西部地区バル街」誕生のきっかけとなった。
現在の参加店は当時と比べると約3倍、参加者は約10倍となった「函館西部地区バル街」はこの夏に、「サントリー地域文化賞2019」を受賞。地域文化に貢献したことや全国にノウハウを提供し、同様の催しが日本中に広がったことが評価された。
深谷さんにとっての平成は、食を通じて人と地域に潤いをもたらす活動を続けてきたこと、そして今では全国で開催されるようになった「バル街」の先駆者として、その普及に尽力してきた時代と言えるのではないだろうか。

聴こえにくいラジオから全世界へ

『FMいるか』局長 宮脇 寛生さん

『FMいるか』局長 宮脇 寛生さん

「学生の頃は勉強をしながらラジオを聴いていました。勉強よりもラジオに夢中になっている時もありましたね」
平成4年に日本初のコミュニティーラジオ放送局として誕生した『FMいるか』の局長・宮脇寛生さんは、そう話す。東京の大学に進学した宮脇さんは、知人に誘われてラジオ局でアルバイトをはじめ、卒業後はそのラジオ局に正式に入社。その後、家庭の事情で地元函館に戻ることとなった際に、ラジオ局勤務の実績が注目され、帰省から2日後には『FMいるか』に入社した。ラジオとの縁が実に深い人物といえる。 宮脇さんがFMいるかで仕事を始めた平成7年の同局は函館市内でも電波の届かない地域が多く、雑音など入らず鮮明に聴こえるのは函館駅周辺までだったという。当時を振り返る宮脇さんは「聴こえにくいラジオでした」と話す。平成という時代の中で最も大きく変わったのは、当時0・1ワットだった電波の出力が20ワットになり、多くの函館市民が聴けるラジオになったこと。平成16年には2カ所の中継局が設けられ、南茅部町、戸井町、恵山町でも聴けるようになったのだそう。
さらに平成24年には、インターネット放送がスタートしたことにより、函館発のラジオ放送を全世界に届けられるようになった。
しかし一方では、地域の人にきめ細やかな情報を伝えたい…というご自身の根本的な考え方が開局当初から変わらず、その思いを次世代の人材に繋げてゆくことが宮脇さんの努めのひとつとなった。
「例えば、地震などの緊急時に安心や安全を市民に届けるのも地元ラジオ局の使命だと思っています」
現在は局長としてその手腕を発揮している宮脇さんの思いは「聴こえにくいラジオ」だった時代から今も変わらず、令和の時代へと続いている。

感動と始まり、躍動の平成

『はこだて国際民俗芸術祭』芸術監督 ソガ 直人さん

『はこだて国際民俗芸術祭』芸術監督 ソガ 直人さん

「自分にとっての平成は、音楽や仲間との出会い、人生で大きな感動体験をした始まりと躍動の時代でした」と話すのは、『はこだて国際民俗芸術祭』の芸術監督で「株式会社ヒトココチ」代表取締役のソガ直人さん。
地元奈良を離れ、函館の教育大学に入学し、和太鼓や横笛を演奏するサークル活動で現在の仲間と出会った。卒業を機に仲間と共に「ひのき屋」を結成。幼稚園、保育園などで演奏会や太鼓教室を開き、少しずつ活動の場を広げていく中、結成3年目に海外の野外フェスティバルに招かれ、これが人生の大きな転機となった。
1つの町に世界中のグループが滞在し、数日間に渡り、屋外ステージで入れ代わり立ち代わり民俗ダンスや音楽が披露され、宿舎に戻っても終日音楽が鳴り響き、毎晩がパーティーのようで楽しかったそう。
特にクロアチアとブラジルでのフェスティバルは、ソガさんに強烈な感動を与え、「こんな国際フェスティバルを函館でもやりたい」という思いを強く抱かせた。
日本ではほとんど前例がないため様々な不安もあったそうだが、多くの人達の協力を得て、平成20年には、「ひのき屋」結成10年の節目に、函館で第1回目となる『はこだて国際民俗芸術祭』を開催した。芸術祭に世界中からたくさんのグループが参加して、イベントは大盛況となり、会場に足を運んだ数多くの人に感動を与えた。
「小さな町や村でずっと伝承されている音楽やダンスが、数日間、函館の元町に凝縮されて、世界の空気感を肌で感じられる。この感動と楽しさは12年たった今も変わることなく、面白いです」と話すソガさんの笑顔は、幸福感に満ちていた。

公立はこだて未来大学の1期生

『公立はこだて未来大学同窓会』会長 仙石 智義さん

『公立はこだて未来大学同窓会』会長 仙石 智義さん

2000年4月に開学し、今年20周年を迎える『公立はこだて未来大学』。
その1期生である仙石智義さんは、同大学に入学した理由を、「函館にいながらにして最先端の学問が学べることに大きな魅力を感じたから…」と話します。
公立はこだて未来大学は開学当初から「オープンスペース、オープンマインド」という精神を掲げています。
自分を広げて様々な関わりの中から積極的に学びを得ようとする校風に後押しされた仙石さんは、合同学生祭「大門祭」の立ち上げや函館市の成人祭実行委員を引き受けるなど、積極的に学外の活動に携わるようになります。
そうした学外の活動について、「大人の力がなければ何もできなかった」と当時を振り返ります。
何かを行う時には、協賛金や補助金を得るためのノウハウや各種届出の方法などを知ることが不可欠で、それら数多くのことを周りの大人が教えてくれたのだと話しています。  現在、NPO法人函館市青年サークル協議会の理事長を務める仙石さんは、シエスタハコダテ4階「Gスクエア」のスタッフとして若者達と接する日々を送っています。
「自分が学生時代に大人にしてもらったことを、今度は今の若い人たちにしてあげることが、お世話になった大人の人たちへの恩返しになると思っています。先回りしていろいろ言いたくなることもありますが、まずは若い人達が思うようにやってもらいたい。その上で、相談されたり力になれたりすることがあれば、全力で応援します」

五稜郭に箱館奉行所を復元

『函館市教育委員会文化財課』学芸員 野村 祐一さん

『函館市教育委員会文化財課』学芸員 野村 祐一さん

平成22年、解体から約140年ぶりに五稜郭公園内に蘇った「箱館奉行所」。同年7月29日の一般公開以来、令和元年の今年10月末までに延べ170万人が来場している。
『函館市教育委員会文化財課』の野村祐一さんは、学芸員として遺跡発掘調査から完成まで、箱館奉行所の復元プロジェクトに長く携わった人。教育委員会の職員になったのは平成5年。箱館奉行所復元を含めた特別史跡五稜郭跡整備のための遺跡発掘調査は、昭和の終わりにスタートしたプロジェクトで、野村さんは平成11年からその遺跡調査に参加した。
その後、平成17年の復元設計、翌18年の着工、そして平成22年の完成まで、史実に忠実に復元させるため、建築当時の材料や工法など、調査結果によるデータを基に工事をサポート。
「技師ではないので建築工事の詳細は分かりませんでしたが、昔あった場所に当時の姿を再現させるため、可能な限り歴史に忠実になるよう工事が進められているかを見守りました」
着工から4年の月日をかけて完成した箱館奉行所。一般公開の前日、「やっとできた」と、箱館奉行所の大広間に大の字になったという野村さん。箱館奉行所の復元は内外からも注目され、文化庁からも「史跡整備の良い事例」と認められている。
「私は大きなプロジェクトの中の1人。それでも、関わったものが形になったことはとても誇らしい。五稜郭の中に建物を復元することによって、当時の姿を再現するいい仕事ができたのかな」と話す。
箱館奉行所では現在、奉行に変身したり、土方歳三と一緒に記念写真が撮れるAR撮影を導入している。