青いぽすと

函館100年の歴史と物価

2000-12-01 vol.217

函館の生活の歴史を当時の物価と共に振り返ってみた

20世紀のこの100年間、函館市民の暮らしはどう変わってきたでしょう。父母、祖父母、そのまた先祖の経験した「はこだて」の歴史。古くは明治大正時代までさかのぼって、人々の記憶の中にあるそのときどきの街の変遷を、庶民の日々の暮らしからみつめてみたいと思います。

20世紀の函館…港街100年の群像…第2弾「暮らし」

函館は開港当時から西洋文化の影響を色濃く受け、進取の気質にとんだハイカラな港街として知られてきました。多くの外国人が居留したことから生活用品や料理、調度品、衣服などさまざまな面で西洋文化の影響をうけ、度重なる大火による産業基盤の変容など紆余曲折を経ながらも、函館文化とも言うべき独特の生活様式を形成してきました。

現在でも西部地区は、和洋折衷様式の家屋が点在し、歴史的建造物も数多く残る函館ならではの町並みを形作っています。

また、北海道のなかでも早くから開けた街だったことから生活に欠かせない上水道、電気などもいち早く導入されましたし新聞、写真など文化の面でも古い歴史を誇っています。

しかし、この100年を通して人々の記憶に残っているのはやはり昭和の暮らし。とりわけて昭和9年の大火、昭和16年から20年にかけての太平洋戦争は暮らしにさまざまな影をおとしました。昔を知る方には懐かしい、かつての函館の暮らしを思い起こしていただき、若い人々、函館に転入した方々には、函館の昔を知り、先人の暮らしをしのんで、この街のあらたな面を知る手掛かりにしていただければと思います。

この100年の人々の暮らしをふりかえることで、現在のわたしたちの暮らしと函館の街の現在について見直すきっかけになれば幸いです。

100年間の函館の物価

みなとまちに生きた人々…二十世紀、函館のくらし

庶民の足、路面電車のはじまりは馬車鉄道から

末広町十字街

函館市民の足として、現在も活躍する路面電車。その前身は、もともと明治30年に発足した馬車鉄道。つまりはじめは馬が車のかわりだったわけです。弁天町から東雲町、湯の川へのみちのりで、レールの上を馬に引かれた車両が走りました。なにしろ車ならぬ馬が主役。馬糞が乾燥して風に舞う、悪名高い馬糞風が吹きましたが、馬の踊鉄屋は繁盛したそうです。

大正2年現在のような路面電車になりました。ハイカラ好みの函館市民に大いに歓迎されたとか。もちろん北海道初の路面電車でした。物珍しさから首や身体を車窓からのりだしたり停車場以外の場所で乗り降りする人もいて乗客への注意事項を徹底させるのにたいへんだったようです。太平洋戦争中は出征する男性にかわって女性の運転手が活躍しました。当時は車両前後の運転席にはドアがなく吹きさらしだったので、雨の日や冬は辛かったといいます。

函館駅から荷物をチッキで送ったことも…

連絡船がなくなるまでは、函館駅は青函連絡船とそれに続く鉄路の基点として、北海道の玄関口にふさわしいにぎわいをみせていました。函館駅の現在地での開業は明治37年。39年に函館札幌間に直通列車が開通しましたが、所要時間は何と13時間だったそうです。青函航路を国鉄が直営開始したのは明治41年。当時、船と列車の接続は10時間近くあって不便だったことから、駅付近には旅館や居酒屋、カフェ等が軒をならべるようになったといいます。

戦争中は女子挺身隊の独身女性たちが乗務員として活躍しました。終戦直後はシラミによる発疹チフスが蔓延し米軍の命令で、青函連絡船の乗客はDDTの消毒を義務づけられたそう。

旅の手荷物は「チッキ」と呼ばれ到着駅まで運んでもらえました。今のように宅急便などありませんでしたから、盛んに利用されたものでした。

微かににおうアンモニア、なつかしの活動写真館

銀映座(昭和12~42年)

娯楽と言えばいまのようにテレビが普及する以前は映画が人々の最大の娯楽でした。

函館にはじめて映画館ができたのが明治42年。錦輝館という活動写真の常設館で、当時は無声映画なので画面の説明をする弁士付き。弁士は当時花形の職業で試験も難関でした。大正の末には函館で映画のロケもあったとか。地方ではまだまだ映画は芝居小屋か小学校の体育館でたまに観られるくらいの時代でしたが函館では大正4年に市内に8カ所の活動写真館ができていたそうです。

その後も映画は長い間人々の娯楽の中心で、函館にもかつてはたくさんの映画館が軒をつらねました。

塩びきの鮭、いか売りの声、鯨肉

現在は、衣食住に関して何でも、好きなときに当たり前のように手に入れられますが、お金はあっても物がないという時代もありました。

戦争中は食料が不足して米など主要な食品は配給制になったので、自由には手に入らなくなり家庭の主婦は毎日の献立に苦心しました。

北洋漁業が盛んだったころ(昭和20年代末)船に乗っている知人からリンゴ箱いっぱいの筋子をもらったことがあるという80代の女性は言います。「鮭も筋子も高級品だったのでうれしかったけれど冷蔵庫もない時代で食べきれなくて半分は捨てました。もったいないはなしですよね」

電気冷蔵庫が家庭に普及するのが昭和30年代後半から40年代。それまで冷蔵庫と言えば木の箱にトタンをはったもので上段の氷をいれ下段に食料を入れて氷の冷気で冷やすという原始的なものでした。それさえもっている家は少なく、食料は涼しいところに置いたり、スイカやトマトは水に浮かせて冷やしたりしていました。食品会社もいまのような大規模な冷凍冷蔵施設がないため魚を多量の塩をして貯蔵しました。そのため鮭も塩引きといわれるほど塩辛く、お湯で塩だしして食べたほど。

子どものころ市の中心部に住んでいた50代の男性は、毎朝いか売りの声を寝床で聞いたといいます。「いがーいがー」と独特の節回しで、とれたての朝いかをリアカーで売り歩いていました。

また、捕鯨も盛んだったため鯨がよく食卓にのぼりました。昭和30年代には学校給食に鯨のカツがでたという記憶を持つ人もいます。

今では鯨肉はすっかり影を潜めましたが、道南ではいまでもお正月になると鯨汁をつくる習慣があり、わずかにそのころのなごりをとどめています。

ハイカラな街、函館のショッピング

函館のデパートの先駆けは金森森屋百貨店。函館の4の天王と言われた渡辺熊四郎が明治2年に創設した金森洋物店がその前身で、大正になって3階建のビルを建て京以北初のデパートになりました。

昭和5年には、明治25年に札幌から函館に進出した今井呉服店が増築して百貨店に生まれ変わり、函館ではじめてのエレベーターも登場して話題を集めました。その1月後、金森森屋も増改築して、函館に本格的なデパート競業の火ぶたが切られたのです。両デパートとも屋上に遊園地や庭園を設備し催事場や美容室もあって市民の人気を得、改装翌年の初売りにはいずれも大勢の客がつめかけ大盛況だったとのこと。

函館の女性たちの学校

函館は北海道のなかでも早くから開けた街として文化面でも進んでいたと言われます。女子教育ではアメリカのプロテスタント系教会が創設した遺愛女学校、フランスのカトリック系女子修道会が創設した聖保禄女学校(現在の白百合)、函館の仏教寺院が共同で創った仏教系の六和女学校(後の大谷)などの私立学校と北海道庁立函館高等女学校(現在は函館西高校)は明治のころからの歴史をもつ学校です。

遺愛女学校

今と違って良妻賢母教育が主だった女学校ですが、太平洋戦争の頃には、補習科といって1年間の授業を追加すると教員免許がとれたので、召集された男性教員にかわって、女学校をでたばかりの10代の若い女先生が小学校の教壇に立つ姿が多くみられました。

そのほか裁縫学校も数多くありました。既製服など手に入らない時代でしたから技術を身につけて職業とする目的以外に、家庭に入る女性のための良妻賢母教育としても、裁縫は女性の大事な生活の技術でした。

家庭の置き薬

昭和のはじめころまでは今のように病院へ行くということはよほどの事でなければなかったようです。少しくらいの病気は家庭看護でなおしていました。富山の置き薬は江戸時代からあったようですが、昭和にはいってからも各家庭で親しまれ、風邪薬のトンプクや小児薬の救命丸、婦人薬の実母散などはその定番でした。

お産のときも病院へは行かず、家でお産婆さんに来てもらいました。明治大正期までは函館でも、座産といって座ったままのお産が一般的でした。衛生状態もよくなかったため産褥熱で亡くなる産婦も多かったのです。